柏井壽さん書き下ろしエッセイ

「まるごと」には理由があった

柏井壽「まるごと酒旅をゆく」

食や旅をテーマとした小説の名手である作家・柏井壽さん。
南砺を訪れて、まるごと酒旅を二泊三日、体感しました。
ここでしか読めない、柏井さんの書き下ろしエッセイです。

柏井壽(かしわいひさし)

1952年京都市生まれ。歯科医師、そして作家と、2つの領域で活躍。京都の名店の真髄を綴った『草を喰む』(プレジデント社)が大きな話題を呼び、思い出の食をテーマに据えた小説『鴨川食堂』(小学館)はNHK BSプレミアムでテレビドラマ化されシリーズ発行累計38万部を誇る。また、『京都しあわせ食堂』(PHP研究所)をはじめとした旅館、料理店をめぐるエッセイも多数のファンに支持され続けている。創作活動と並行して、国内の名旅館により構成される「日本 味の宿」顧問を務めており、宿文化の継承・発展に力を注いでいる。最新作は2023年3月刊の『鴨川食堂ひっこし』(小学館)。

 酒旅。実に力強い二文字です。しかも、まるごと、というのですから左党にはたまりません。日常から離れて酒浸りの旅をする。しかも南砺という地にはあまりなじみがないので、未知の世界の旅でもあります。
 南砺というのですから、きっと砺波平野の南のほうを指しているのでしょう。チューリップで有名な砺波ならよく知っています。散居村で知られる鄙びた地です。
―はてもなき 砺波のひろの杉むらに とりかこまるる家々の見ゆ―
 砺波平野に点在する家々の、凛とした美しさに感動された昭和天皇御製の歌を思いだし、行ってみたくなりました。
 日本の原風景を今に残す土地を巡り、まるごと酒に浸る旅。はたしてどんな感動を与えてくれるのでしょう。
 春まだ浅きころ、二泊三日でまるごと酒を愉しむ旅にでました。出発点は南砺市の中心地城端。越中の小京都と称される坂の町です。
 城端には縄文時代から大きな集落があったと言いますから、きっと住みやすい土地なのだろうと思います。JR城端線の終着駅、城端駅に降り立って、見上げれば雪を抱いた山々がそびえ立ち、目の前には広々とした平野が広がる、という里山らしい光景です。
〈まるごと酒旅〉は、一日目の宿、二日目のお店、二日目の宿、二日目の移動タクシーがセットになっていますので、初日はおとなしく、寄り道せずに一路宿に向かいます。

 庄川峡長崎温泉の「古民家の宿おかべ」が一日目の宿。山あいに建つ小さな一軒宿で、むかしは村長さんの家だったそうです。古民家の宿という名のとおり、まもなく築百年を迎えるという建屋は豪壮な造りで、よく手入れの行き届いた太い柱や梁が黒光りしていて、長い歴史を感じさせてくれます。
 小さな宿とは思えないほど立派な内風呂と露天風呂で、アルカリ単純温泉に身を浸し、今宵の美酒と美食に想いを馳せるのは温泉宿ならではの贅沢な時間です。
 内風呂はやや熱め、露天の岩風呂はいくらかぬるめで、理想的な湯温のお風呂を堪能しました。
 さて、いよいよ酒旅初日の夕餉、どんな料理とお酒が待ち受けているのでしょう。ワクワクしながら、食事処になっている一階の広間へと向かいます。朝夕とも古民家らしい空間で、ゆったりと食事をいただけるのもうれしいところです。
 まずは前菜の盛り合わせ。栄養士でもある女将さんの料理は、山里の幸をふんだんに使いながらも、洗練の技が加えられ、器遣いや盛り付けの妙もあって、思いのほかあか抜けた佇まいで、京料理を見慣れた目も愉しませてくれます。
 旨い! 箸をつけるなり、思わず声をあげてしまいました。
 ウドやウルイ、タケノコといった里山ならではの食材は、おなじ土地で醸すお酒と、絶好の相性を見せてくれます。「成政」の純米無濾過生原酒、「若駒」の純米無濾過生酒、そして「三笑楽」の蔵出濁酒生という地酒三種も、それぞれの個性が際立ち、料理を引き立てます。
 日本酒だけではなく、「城端麦酒」の〈麦やエール〉、「ドメーヌ・ボー」の白ワイン〈Tatenogahara〉まで、まさにまるごと南砺の酒に酔う一夜は、まるごと酒旅の名にふさわしいものでしたが、これはまだ酒旅の序章だということに、翌日の朝ご飯で気付くことになります。
 座敷わらしが現れることもあるという宿でゆっくり休んだ翌朝、なんと朝から迎え酒とばかり、黒ビールが出てきました。「城端麦酒」の〈曳山ブラック〉です。
 ユネスコ無形文化遺産にも登録されている「城端曳山祭」は毎年5月5日に行われ、300年の伝統を誇るお祭りだそうです。その夜の情景をモティーフにしたのでしょう、芳ばしい苦味は朝の目覚ましにぴったりです。合わせるのは鹿肉のひと口カレーというのですから、酒旅にふさわしい朝食です。お煮しめやニシン昆布といったこの地ならではの郷土料理も並び、朝からもう一献、といきたくなるところですが、二日目はまだ始まったばかり。黒ビール以外のお酒は自重しつつ、炊き立てご飯のお代わりをしました。

 女将さんの見送りを受け、貸切タクシーで最初に向かうのは、世界遺産にも登録されている相倉合掌造りの集落です。酒旅と言っても、飲んだくれてばかりはいられません。ちゃんと南砺という地のことも学びましょう。
 おなじ合掌造りでも、白川郷などに比べ、相倉の家はかなり屋根が急になっているせいか、見た目はかなりシャープです。まだ茅葺の屋根に雪が積もっているのも風情ある眺めですが、夏になるとまた違った光景を愉しめるに違いありません。合掌造りの民家は日本人にとって心のふるさととも言える佇まいですが、外国のかたも同じ思いを抱かれるのか、多くの外国人が訪れていて、盛んにカメラのレンズを向けていました。
 二日目のお愉しみは酒旅のハイライトとも言える酒巡り。
 最初は「城端麦酒」の工場見学と試飲です。清らかな水が湧き出る立野原に建つ醸造所は小ぢんまりとしています。
 昨夜と今朝飲んだビールのほか、紅茶シリーズが人気だと聞き、早速試飲してみましたが、桃の果汁を使った〈向野の桜〉や〈ラ・フランス〉はぼくの好物であるスパークリングワイン顔負けの爽やかな飲み口で、これなら食中酒として最適だとばかり速攻でケース買い。宅配便で送ってもらうことにしました。
 続いてはおなじ立野原にあるワイナリー「ドメーヌ・ボー」。昨夜飲んだ白ワインがとてもおいしかったので立ち寄ることにしました。
 広々とした高台に建つワイナリーに着くと、ちょうど葡萄の木の剪定中。葡萄からワインを造る体制を整えているのだそうです。
 日本のワインというと信州や甲州に目が行きがちですが、北陸のワインにも目を向けたいですね。ここでもまた酒旅みやげにと、〈Tatenogahara〉のソーヴィニヨンブランを買い求めました。帰ってからの愉しみがまたひとつ増えました。

 次に向かうのは昼食を摂る「春乃色食堂」。
 福光の地にあって、大正12年創業という老舗食堂は地元のひとびとから深く長く愛されている店だそうで、食堂好きのぼくは期待に胸を大きく膨らませずにはいられません。
 古いサイディングの建屋は黄色くペイントされていますが、お客さんの希望で塗り替えられていないので、かなり色褪せています。元はもっと鮮やかな菜の花のような春の色だったのでしょう。 そんな素敵な屋号、エピソードを持つ食堂は期待を大きく上回りました。ここでは創業当初からの名物おでんを三種と、「成政」のカップ酒が酒旅ツアーのお決まりセットが出てきますが、これ以上は望むべくもないほどの昼酒なのです。
 このお店のおでんでも人気のタネであり、富山の郷土料理であるお煮しめに欠かせないのが〈まるやま〉。関東などではがんもどきと呼ばれるもので、京都の円山が語源だろうと言われています。円山には豆腐田楽を名物とする茶店がありましたから、おそらくはそれが由縁となっているのでしょう。
 よく味の染みた〈まるやま〉や大根と南砺のカップ酒。これこそが至福の味わいというものです。素朴な味わいは舌だけでなく、心にも沁みていきます。
 ぼくは知らない土地を旅するとき、かならずその地に古くからある食堂を訪ねます。そこで出される食や酒、集う人びとを見れば、その地のおおよそのことが分かります。その地に根付いた食堂は、その地の縮図だからです。この「春乃色食堂」はまさにそんなお店でした。食通ぶる客もなく、店側もなにひとつ押しつけることなく、ありのままの営みが繰り広げられる光景は、心休まるひとときです。
 おでんに加えて中華そばも食べましたが、どこか懐かしさを感じさせる、あっさりした味わいで、それもきっとこの南砺という地を表しているのでしょう。

 ランチのあとはふたたび学びの時間。
―わだばゴッホになる―という言葉で知られる版画家の巨匠、棟方志功ゆかりの地を訪ねます。
 昭和20年4月から、6年8か月ものあいだ、家族とともに福光町に戦争疎開していた志功は、住まいを「愛染苑」、その中のアトリエを「鯉雨画斎」と名付け、多くの作品を作り、地元の人々と親しく交流したそうです。祖父の影響もあって民藝運動には深い興味を持っているのですが、志功がこの地で暮らしていたことはまったく知りませんでした。
 志功の出身地は青森なのに、なぜ富山のこの地に疎開したのかと言えば、立山に対して強い憧れがあったからだろうと言われています。志功は立山を舞台にした〈善知鳥〉という能を題材にした版画で一躍表舞台に立つことになったのですから、疎開先として富山の地を選んだのは必然だったのかもしれません。
 瓦葺の平屋の玄関には「鯉雨画齋」と書かれた表札が掛かり、上がりこむと志功の息遣いが聞こえてきそうなほど、往時のままに保存されていて、板戸やお手洗いの天井には志功の肉筆画が残され、息を荒くして夢中で描く志功の姿が浮かんできます。
 囲炉裏があり、床の間には柳宗悦の軸が掛かり、富本憲吉の書が飾られた「鯉雨画齋」には民藝の風が渦巻いています。
 お酒に強く魅かれての旅でしたが、まさか南砺の地で民藝の空気に触れられるとは思ってもみませんでした。志功の作品を集めた美術館が近くにあると聞いて、訪ねない理由などありません。早速「南砺市立福光美術館」へ足を延ばしました。
〈二菩薩釈迦十大弟子〉を彫った六曲一双屏風や、〈沢瀉妃の柵〉の額など、志功の代表作とも言える作品が展示してあり、写真撮影もOKとあって、久方ぶりに志功を満喫しました。なかでも、大きな屏風に生き生きとした筆致で描かれた〈松柏図〉には圧倒され、思わず息を呑んでしまったほどです。
 この美術館には志功のほか、この地の出身者である日本画家、石崎光瑤の作品も多く収蔵されています。竹内栖鳳の門下だった光瑤は、優美な花鳥画を得意とし、写実画に江戸琳派の装飾性を加え、独特の華やかさを湛えた画風を確立した日本画家として、もっと注目されてもいいと思っていましたので、思いがけなくもうれしい出会いでした。
 この美術館では、俳句と民藝をテーマにした企画展が5月7日まで開催されると聞き、ぜひとももう一度訪ねたいと思っています。

 学びのあとはスイーツタイム。と言っても酒旅ですから、甘党だけではありません。ちゃんとお酒もセットになっているのです。
 城端にある「桜ヶ池クアガーデン」はスパ施設を備えたホテルで、酒旅では「成政」の貴醸酒と、それに合わせて作られたオリジナルスイーツのセットを愉しむことができます。
 見た目にも麗しい、桜花爛漫をイメージしたスイーツはほど良い甘さで、仕込み水の一部に純米酒を使い、おだやかな酸味と濃密な甘みを湛える貴醸酒との相性も抜群です。
 スイーツに添えられたエディブルフラワーも地場産と聞いて驚きました。お酒だけでなく、口に入るものすべてに南砺の思いが込められているのです。
 酒旅ならではの時間はまだ続きます。
 次に訪れたのは井波の古い町並みに溶けこんだお店「nomi」です。
 井波は日本一の木彫りの町として知られ、人口8000人に対して、200人が彫刻師だというのですから、まさしく木彫りの町です。石畳が続く八日町を歩くと、そこかしこに彫刻の工房やお店が目に入ってきます。そんな樹々の香りが漂う町の一角に、むかしながらの蔵を使ったビストロカフェが隠れていて、酒旅では地元で生まれたシングルモルトウィスキー〈三郎丸Ⅰ THE MAGICIAN〉と燻製料理を味わえます。
 バーボン樽に由来するウッディな香りと、バニラとフルーツが入り混じったようなおだやかな甘さが印象的なジャパニーズウィスキーは、トワイライトタイムにはぴったりです。
 木彫りの町らしく、ヒノキやサクラなどを彫刻した際の木くずを使って燻した料理も、井波という町の空気を色濃く漂わせ、ぜいたくな時間を過ごすことができます。
 井波でぜひとも訪れておきたいのは「瑞泉寺」。明徳元年に開かれたという南砺きっての古刹です。
 大門や勅使門、本堂などのそこかしこに井波彫刻が施され、そのみごとな細工にため息が出るほど美しいお寺です。思い立ってすぐに立ち寄れるのも一日貸切タクシーならではのことです。

 春の日も暮れて、いよいよ二日目の宿に向かいます。
 ゆっくりと酒旅を愉しんだ一日をお供してくれたタクシーともここでお別れです。都会のタクシーとはひと味もふた味も違う、のんびりとおだやかな移動時間も南砺ならではの快適なものでした。
 相倉と菅沼、ふたつの世界遺産合掌造り集落にはさまれた地に建つ「よしのや旅館」が酒旅二日目の宿です。
 国道156号線沿いにぽつんと建つ一軒宿の背後には山が迫り、田畑や民家が点在する鄙びた空気を漂わせています。
 ぜんぶで6部屋しかない小さな宿ですが、二階にある近年リノベーションされた二間続きの和洋室は、ツインベッドを備えていて、広々とした空間で快適に一夜を過ごせます。
 階下のお風呂で五箇山温泉に浸ったあとは、酒旅を締めくくる夕餉とお酒を食事処で愉しみます。
 ラウンジとしても使われているカウンター席に座ると、ちょうど釜炊きご飯ができあがるところでした。カウンターをはさんで、若女将さんが料理の説明をしてくれるのもうれしい気配り。家族で営む宿のぬくもりにほっこりとなごみます。
 炊き立て熱々のかやくご飯には、野山の恵みがたっぷり入っていて、ひと口これを食べて、お腹を落ち着かせてからお酒をいただく、という趣向は身体のことを気遣ってのことだろうと思います。
 イワナのお造り、山菜の天ぷら、そしてイワナの塩焼と、山里の湯宿らしい料理が食卓にならび、その相手となるお酒は「三笑楽」。五箇山の蔵で醸されるお酒です。
 土の香り、とでも言えばいいでしょうか。どの料理も山の空気をたっぷりと含んでいて、命の芽吹きを感じさせるパワーがみなぎっています。
 清冽な山の水で育ったイワナは清らかな味わいで、豊潤な山の土で育った山菜は冬の眠りから覚める苦味を湛え、食の原点を感じさせてくれます。
 やがて小さな土鍋では熊肉が煮えはじめました。
 これほど力強い料理には、淡麗なお酒ではとても太刀打ちできないはずです。どっしりと重厚な味わいの「三笑楽」の純米吟醸や上撰が純朴な料理を包みこみ、みごとな二重奏をかなでます。
 早春の一夜。山あいの宿は冷気に包まれますが、宿の中はぬくもりに満ち、お腹も心もぽかぽかと温かくなって、心地いい眠りに就くことができました。
 ぐっすりと眠った翌朝は春爛漫の陽気です。昨夜とおなじ食事処で供される朝食は過不足のない料理で、ここでも〈まるやま〉の入ったお煮しめと、たっぷりのお漬物が付いて、ことのほかご飯が進みます。
 山の湯宿らしい控えめな接客も居心地よく、出立のときに大女将が淹れてくださったコーヒーもしみじみとした味わいでした。

 旅の最後に訪ねたのは「成政」の蔵元。名物のかぶら寿しを肴に、しぼりたてや生酒の試飲をしました。とりわけ印象に残ったのは、野生酵母にこだわって醸したという〈尾仲〉。これまでにない新しいタイプの日本酒でした。
 これなら和食だけでなく、洋食でも、エスニックや中華料理でも、どんな料理にも合わせられそうで、日本酒の可能性を大きく広げる個性を際立たせていました。
 これで、南砺だからまるごと酒旅、の行程がすべて終わりました。
 旅を振り返って、すぐに頭に浮かんだのは、個性という言葉です。
 味わいには個人差がありますから、おいしい、まずい、という感想はそれぞれに異なると思います。ぼくがお酒に求めるのは個性です。ほかとは違う味、独特の味があってこそ、いいお酒だと思うのです。その意味で、南砺の地で醸されるお酒は、日本酒もビールも、そしてワインもそれぞれに個性が際立っています。この酒旅を企画された方が、「まるごと」というキャッチコピーを付けられた意味がよく分かりました。
 すべてを味わってみないと、南砺の良さが分からない。だから「まるごと」なんだと。それはお酒だけに限ったことではなく、食や宿、風土、人情など、あらゆるものが、おなじ南砺のなかでも微妙に異なり、それぞれの地域ならではの個性が旅の愉しさを倍加させているのです。
〈まるごと〉はお酒と南砺、両方に掛かっていたのだと旅を振り返りながら、再訪を期し、後ろ髪を引かれつつ南砺をあとにしました。

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